七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

ディズニー文化の衰退!?

 先週、8年ぶりのディズニーランドに二美、三郎を除く7名で行ってきました。今回のディズニーの目的は、ほぼディズニーランドの記憶がない中ニの四郎以下の子供達を千葉県民として一度くらいは連れて行かないと、という義務感から。(8年前、五郎は2歳、六美は0歳、七郎は生まれていません)。

本日はその所感です。

まず、雨の日曜日ということでしたが、思ったより空いているということ。開門後9時30頃舞浜について21時までの間にほとんどの主要なアトラクションに乗れた気がします。

最も感じたこと。若者のディズニー離れが指摘されていますが(ひろゆきさんのyoutubeなど)、現在の小中学生以下のディズニー離れが深刻なのでは無いかということです。

実は、10歳の六美はこれまで「ディズニーランドに行きたい」、「ディズニーランドに行ったこと無い家なんて他にない」、「ディズニーランドの話題についていけない」など言ったことがないです。これは、昭和の地上波テレビのような「あの番組を観ていないと学校での話題についていけない」ということが消滅したことと同様に、千葉県民であってもディズニーが当たり前でなくなってきていることがありそうです。

現在の若者(大学生以上)の世代が幼いころは、スマホyoutubeなどが普及しておらず、DVDなども多く視聴していた世代です。当然、ディズニーアニメにも多く触れた子供たちも多かったのではないでしょうか。我が家も「カーズ」や「モンスターズインク」「トイ・ストーリー」「リトルマーメイド」などを視聴していました(教育的にもお勧めできるストーリーが多いです)。

しかし、いわゆるデジタルネイティブと呼ばれる現中学生以下になると生まれながにしてスマホに触れ、youtubeで育った子供達も多くなっていると推測できます。

つまり、映画を観ていないのでディズニーランドへ行ってもその世界にあまり入り込めないという現象が起こっているように思います。

加えてこうした状況が感じられる現象の一つとして、プリンセスの衣装をまとった女の子が減っているように感じました。かつては、アトラクションに並んでいると何人もいたように思いますが、今回はとてもレアです。五郎が「おー、お姫様の格好した子どもいる!」と驚くほどでした。

アナと雪の女王」を最後にディズニー映画がうまくいっていないことをよく耳にします。これまで築いてきたディズニー文化を次世代の子供達にいかにして継承していくか頑張って欲しいところです。先日、戦隊ヒーローが終了するとの報道がありましたが、こうした子供向けの良質なコンテンツが失われていくことを危惧しています。

 

そのほかの所感。

・キャストの変化

以前に比べて対応が冷たい印象でした(パレードの誘導の方たちに質問した時、以前のようにみんなが明るく優しく教えてくれるわけではなかったです)

・テクノロジーの停滞?

40年前の開園当初、幼かった私は「ホーンテッドマンション」の技術や、「スペースマウンテン」の斬新さに驚いていました。今の小中学生はディズニーランドのテクノロジーにあまり驚いていない様子(「美女と野獣」の野獣が変身するシーンは驚いていました)。このあたりももう少し頑張って欲しいところです。

・自ら感じる老い

「ビッグサンダーマウンテン」は若い頃、ゆっくりなジェットコースターという印象でしたが、50代になると振動が身体を刺激し乗車後に気分が悪くなります。残念ながら、ちょっともう楽しめない感じです…。

 

ディズニーシーの人気は好調のようですので心配し過ぎなくてもよいかもしれませんが、千葉県民としてディズニー文化の再興を期待したいところです。

 

 

 

小学校の国語科教科書に思う② なぜ小学生の作文では「私は、(読点)」となるのか。

皆さんは小中学生の頃に作文を書くとき、書き出しを「私は、~」「ぼくは、~」としていなかったでしょうか。

よく読書される方はすでにお気づきだとは思いますが、通常文章を書くときに、短い主語のあとすぐに読点(、)は打たないことが多いです。

たとえば、本多勝一『〈新版〉日本語の作文技術』(朝日新聞出版、2015)、野内良三『日本語作文術』(中央公論社、2010)、石原千秋『大学生の論文執筆法』(筑摩書房、2006)などがあります。これらはいずれも大学生以上の読者を想定しているものです。

代表的な一つである本田(pp.104-112)では、読点を打つ原則として以下の二点を挙げています。

第一原則「長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ」

第二原則「語順が逆順の場合にテンをうつ」

上記二点はやや専門的ですが、結局のところは論理的に誤解のないように読むために、最低限必要な箇所にテンをうつということです。本田によれば、この二大原則のテン以外は、「筆者の思想としての自由なテン」であると解説しています。(本田はそれ以外の細かい原則を挙げていますがここでは省略します。)

 

つぎに、高校生向けの小論文指導の大家である樋口裕一『小論文これだけ!書き方超基礎編』(東洋経済新報社、2013)を取り上げます。

ここでは、「読点(、)の上手なつけ方」(pp.46-49)として以下の4点を挙げています。

1)主語が長くなったときに、主語のあとに打つ

2)重文で、接続助詞のあとに打つ。

3)「そして」「しかし」「したがって」などの接続詞のあとに打つ。

4)名詞などを列挙する場合に打つ。

高校生にはわかりやすい規則であるといえるでしょう。樋口(2013)では、1)においてたとえば「その問題についてくわしくない私は、」のように「主語が長くなったとき」に主語のあとに読点を打つとしています。

つまり、上記のような読点の打ち方では、「私は」という短い主語の後に点を打つ規則は提示されていません。では、なぜ小中学生の作文では「私は、~」となっているのでしょうか。

実は、その原因の一つを小学校国語科教科書に求めることができます。

教育出版の4年下に「点(、)を打つところ」という単元があります。

ここでは点を打つところとして、以下の例を挙げています。(例文も教科書掲載)

主語を表す「は」のあと。「わたしは、健康に気をつけて…。」「春風が、そっと花びらをゆらした。」

②言葉や意味の切れ目をはっきりさせたいところ。「出演者は五名、氏名は…。」

③文と文をつなぐ言葉のあと。「すると・しかし・そして・また・」などのあと。

 「雨がふった。しかし、運動会は行われた。」

④「ああ・おい・はい」など、感動やよびかけ、返事などを表す言葉のあと。「はい、ぼくが言ったのは…。」

⑤文の中に「   」でかこんだ会話文を入れる場合には、その前で打つ。

 「おばあちゃんは、「また、みんなで行こうね。」と行った。」

最後に「文が長いときなどに、読みやすくするためにも点を打ちます」と解説しています。

 

お気づきのとおり、①に「主語を表す「は」のあと」には読点を打つように示されています。一般的には「ぼくは、書店でマンガを買いました」という文で、主語のあとに読点を打たない方が一般的です。しかし、小学校の国語科では短い主語のあとに読点を打つことが習慣化されています。

大学の教員の悩みの一つとして、レポートを課した場合に大学生が「私は」という作文(生活文)のような書き出してしまうことが挙げられます。さらに、「私は」の後に不自然な読点が打たれていることも修正の負担感を増す要因となっているのです。

この小学校国語科における主語のあとの読点という規則は、小学生に「主語」と「述語」の関係から「主語」を意識させることに目的があるのだろうと推察されますが、社会に通用する文章を書けるようにするということから考えると再考の余地があるように思われます。

 

 

小学校の国語科教科書に思う① 熟語の構成

 光村図書の小学校用国語科教科書の4年下に「熟語の意味」という言葉の単元があります。この教科書を使って授業をするとしたらいくつかの課題があると感じましたのでここに記します。この単元では以下のような熟語の構成について学習します。

①にた意味をもつ漢字の組み合わせ「願望」など

②反対の意味をもつ漢字の組み合わせ「高低」など

③上の漢字が下の漢字を修飾する関係にある組み合わせ「老木」など

④「―を」「―に」に当たる意味の漢字が下にくる組み合わせ「読書」など

 

(1)なぜ、単元名が「熟語の意味」?

 一般的にこの熟語の学習は「熟語の構成」と言われることが多いと思います。これは二つの漢字の関係に着目させるからです。上記①~④は光村図書の教科書の記述そのままですが、いずれも熟語を構成する「組み合わせ」の違いを学習しています。教育出版では、「熟語のでき方」(4年下)、「熟語の構成」(5年上)となっています。こちらの方が学習者に理解しやすく適切ではないかと考えます。

 

(2)導入がなぜか同音異義語の内容

 光村図書では「熟語の構成」を学習する単元の導入が以下の会話で始まります。

 「クッキーを見つけたんだ。みんなで等分して食べよう。」

 「え「トウブン」って。」

 「等しく分けるという、ということだよ。」

 このように、最初に熟語を音で示して漢字に変換するという流れですが、「熟語の構成」の導入としては若干違和感があります。この単元で重要なことは、二つの漢字の関係に気づかせることではないでしょうか。ところが、ここでは同音異義語の学習のような導入になっています。

 ここで、熟語の構成の導入を考えてみます。たとえば、「昨日、牛の肉を食べました」「牛の肉?」「牛肉でしょ?」や、「横断歩道を渡る時は左と右を確認しましょう」「左右を確認ともいえますね」など「牛」と「肉」、「左」と「右」などの二つの語の関係に気づかせることが挙げられます。その二つの語の関係を理解すると熟語の意味を捉えやすいことに気づくことが本単元の学習であるはずです。そのように考えれば単元名が「熟語の意味」でも的外れではないのですが、やはり構成(組み合わせ)の方に重点をおきたいところです。

 

(3)教科書が提示する練習問題が上記①~④に該当しない。

 練習問題では、「[1]訓を手がかりにして、次の熟語の意味を考えましょう」とあります。ここでは、「無色」という熟語が挙げられています。指導書では「色が無い」と解説しています。これは、主語と述語の関係にありますので①~④のどれにも該当しません。ちなみに、教育出版の「熟語の構成」(5年上)では、光村図書の①~④に加えて「上の漢字が主語であるもの「国営」など」「下の言葉の意味を打ち消す漢字が上につくもの「非力」など」という二つのグループが挙げられています。「無色」は当然、「非力」と同じグループに該当します(ちなみに、もう一つの教科書会社である東京書籍では「無色」を五つめのグループに入れて掲載しています)。

 光村図書のように教科書に例示された熟語がどこにも分類できないというのは現場の先生方も困るのではないかと心配です。

 

(4)「熟語」の定義はこれでよいのか?

 そもそも熟語とは何か。光村図書では「二字以上の漢字の組み合わせでできた言葉を、熟語といいます」「熟語には「等分」―「等しく分ける」のように、訓で読むと意味の分かるものがあります」と説明されています。

実際に現場の小学校で児童からこんな質問があったそうです。「先生、秋刀魚(サンマ)はどこに分類されますか?」と。「秋の刀のようなかたちをした魚」と訓で読んでみますと、光村図書の定義、「二字以上の漢字」「訓で読むと意味が分かる」という点において条件を満たしているとも考えられます。これに教師も困惑したとか…。

 言うまでもなく、「秋刀魚」は一般的に「語」と「語」の組み合わせである熟語とは呼ばず、「サンマ」という一つの「語」の当て字と考えます。

 (明確な線引きが難しいのですが…)教師の側も熟語とは何かをある程度定義づけられるようにしておく必要があります。

 

今回の内容は、大学生の授業づくりにおいて戸惑いがみられた点を中心に記述してみました。

 

 

 

自民党総裁選報道にみるオールドメディアの衰退(その2)

今回の総裁選、カギを握っていたのは麻生派だったという事後の報道がありました。

オールドメディアは事前の報道において、麻生太郎氏は前回の高市氏支持で勝ち馬に乗れなかった反省を活かし、小泉氏を支持して前回と同じ轍を踏まないように画策していると目されていたのです。

しかし、元々は麻生氏が安部元首相と近い政治思想の持ち主であり、安部元首相と近かった高市氏の方に親近感を感じるであろうことは多くの人がわかっていたと思います。

つまり、総裁選の事前の報道では、麻生氏が「勝ち馬に乗ろうとするだけの俗物的政治家」であるか、「自身の政治信条を貫く政治家」であるかという二択に対して、麻生氏が前者のような政治家であると受け取られていたと言えます。

(たとえば、政治評論家の田崎史郎氏は、総裁選前の解説で「麻生さんはいまだに誰に投票するか言われてない。周りの人にあたると麻生さんが考えていることは2つで1つは勝つ方につくということ。去年負けたから。もう1つは林さんを潰すっていうか…」とコメントしています。)

麻生氏が事前にその立場を明言しなかったことで、オールドメディアは麻生氏の戦略を読み切ることができませんでした。事前に立場を表明せず、1回目の投票で4,5位が予想される茂木氏、小林氏に入れるよう指示し、決選投票では「党員票の多い候補に入れろ(これが、高市氏になることは多くのメディアでも予測できていました)」と指示を出していたとのことです。

小泉進次郎氏の決選投票前の演説について、一部オールドメディアの解説ではあの決選投票前の演説が明暗を分けたかのように言われています。しかし、そうではないでしょう。おそらく小泉氏は、決選投票前の演説の時点でこのような麻生派の動きを知っていたのだろうと思われます。

そうでないと、なぜこれから決戦投票という時に、小泉氏が涙目であったのか、演説の内容が総裁としての抱負ではなく、これまでの協力者への感謝だけであったのか説明ができないと思います。つまり、敗北することがわかってた敗北宣言であったのでしょう。

いずれにしても、今後も私たちはオールドメディアの揺さぶり的、誘導的な報道に右往左往せず、適切に情報を咀嚼していく必要があることを痛感した次第です。

 

 

 

 

 

 

自民党総裁選報道にみるオールドメディアの衰退

10月5日に自民党総裁選が行われ高市早苗氏が選出されました。

その是非はさておき、今回の総裁選では圧倒的に小泉進次郎氏が優勢と報道されていました。それが蓋を開けてみればまさかの大逆転!

オールドメディアの取材力、影響力の低下を感じざるを得ません。SNS上などで高市氏がある程度の支持があること、オールドメディアとそれを視聴するおもに高齢者に小泉氏が支持されていたこともある程度は共有されていたとはいえ、この結果はほとんどの人が予測できなかったでしょう。

こうしたオールドメディアの報道と選挙結果に隔たりが生じることは、昨年度から顕著になってきたと言われています。

まず、昨年度の都知事選ではオールドメディアの推している蓮舫氏は2位にもなれず、石丸伸二氏に次ぐ3位という結果になりました。

そして、我が国の選挙報道の転換点になるであろうとも言われる兵庫県知事選挙では、オールドメディアが徹底的に叩いていた斎藤元彦氏がSNSの後押しを受けて当選を果たしました。

そのほかにも、オールドメディアの選挙報道は、トランプ劣勢報道や参院選での参政党叩きなど従来の誘導的な報道から抜け出せていない状況です。

こうしたオールドメディアの誘導的な報道に流されてしまうのは高齢者をはじめとするいわゆる情報弱者だけであると考えられ、このまま変わらなければオールドメディアはますます見向きされなくなってゆくのでしょう。

逆に言えば、多くの日本人はSNSをはじめとする多様な情報源から適切に判断できるような情報活用能力を身に付けてきているとも考えれます。

日本の明るい兆しに期待!

 

 

 

「シン読解力」を問う

新井紀子氏による『AIvs教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018)から7年が経過し、新たに『シン読解力』(東洋経済新報社、2025)が発表されています。

新井氏らの研究チームは基礎的読解力を測るためのリーディングスキルテスト(RST)を開発しました。RSTは当時、大変話題になりましたのでご存知の方も多いと思います。代表的なRSTの例として、いわゆる「アミラーゼ問題」を紹介します。

 

アミラーゼという酵素グルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

  セルロースは(     )と形が違う。

  (1) デンプン (2) アミラーゼ (3) グルコース (4) 酵素

 

正解は、(1)デンプンですが、この問題の正答率が成人であっても大変低いことが話題になりました。確かに当初の新井氏によるリーディングスキルテストの結果は衝撃的でした。しかし、冷静に考えてみると、新井氏の主張にはいくつかの疑問点が浮かんできます。結論として、「シン読解力」が重要であることは認めざるを得ませんが、これはあくまでも広義の読解力のなかの一部という捉え方が妥当なのではないかと考えています。

疑問点を挙げておきます。

RSTは「知識を問わないテスト」(p157)であり、純粋な読解力のみを測定するとされていますが果たしてそうなのでしょうか。一般的に「読む」という行為には、「ボトムアップ処理」と「トップダウン処理」があるとされています。

  •  「ボトムアップ処理」:語彙力や文法力を駆使して、文字列から意味を読み取る。
  •  「トップダウン処理」:何の話題かを見抜き、その話題に関する知識や経験などの記憶を駆使して読み取る。

新井氏の主張する「シン読解力」はおもに「ボトムアップ処理」に該当すると考えられますが、「読む」という行為には読み手の既有の知識や経験も大きく左右すると考えられるのです。

新井氏は、「シン読解力が学力をほぼ決定している」(p113)として、「シン読解力」と学力との相関を強調しています。しかし、「読む」行為には「トップダウン処理」も伴っているため、学力が高い児童生徒はその文章の内容にも精通している確率が高く、RSTの正答率が高まることが考えられます。つまり、「卵が先かにわとりが先か」という話になりますが、学力の高い児童生徒ほど「シン読解力」が高く、読解力の問題というだけでなく、知識量の差でもあると考えられるのです。

さきほどのアミラーゼ問題もトップダウン処理ができる知識がある場合とそうでない場合とでは結果に差があるのではないでしょうか。

誤解のないようにお断りしておきます。これは、「シン読解力」が無意味と指摘したいのではありません。これだけを取り出して独立した一つの能力とすることに少々無理があるのではないかと申し上げたいのです。

RSTを通して、定義文を丁寧に読めるようになっていくスキルを習得しいくことについては大いに賛同します。また、新井氏の提唱するアクティブラーニングよりも教科書を丁寧に読める子どもを育ていてくという案にも賛同します。

新井氏の薦める音読、視写などを含め子供たちの読解力をどのように高めていけるのか引き続き考えていきたいところです。

 

 

ブログを再開します!令和の米不足に想う

約一年、ブログを休止していました。

娘(二美)の大学受験も終わり、9人家族の新たな生活も始まっています。

さて、この休止期間に我が家を悩ませてきたことの一つに米価格の高騰があります。

9人家族には大変重い負担でした。

しかしながら、この令和の米不足を通して以下のことが明らかになりました!

農水省(大臣)は当てにならない。

②古米(備蓄米)でも味に大差はない。

③カリフォルニア米は劇的に質が向上している。

 

まず、①について、当初、農水大臣は米は足りていると力説していましたが、どうやら現在の我が国において米の需要に供給が追いついていないことが判明しています。備蓄米放出もパフォーマンス優先で根本的な解決には至っていない様子…。

つぎに、②について我が家の家計を考えると古米、古古米などに頼らざるを得ませんでした。しかし、意外なことにそれほど味の違いは感じないです(小泉農水大臣の試食の感想は本当だった!)。冷静に考えれば、そもそも米はその都度玄米を精米して販売しているわけですので、秋の新米を除けば、冬から春ごろの米は古米と大差ないのは当たり前ではあります。

そして、③何よりも驚いたのはアメリカ産の米です。かつて、何十年も前ですが「平成の米騒動」などを通して、タイ米やカリフォルニア米を食する機会がありました。その当時の外国産米はパサパサで日本の米とは雲泥の差がありました。それが、意外もなかなかの味!もちろん、日本の銘柄米とは少し異なりますが、2000円代で購入できるのは大家族とっては魅力です。

アメリカ産カルロース

結論として、米の生産が足りない、外国産の米の質が向上している、こうした事実は我が国の稲作に大きな影響があると考えられます。これから、アメリカに忖度して米の輸入が増えたり、日本の銘柄米は円安で国内に販売するより海外に売った方が儲けが出ると考える人たちも増えるかもしれません。食の安全保障が心配です。