七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

教職を貶める報道が多すぎる!

 

東洋経済オンラインでこのような記事を見かけました。

 

「これって教員の仕事?」疲弊する先生のリアル 終わらない業務、保護者からの無理難題に苦慮(朝日新聞取材班 の意見)

「これって教員の仕事?」疲弊する先生のリアル 終わらない業務、保護者からの無理難題に苦慮 | 学校・受験 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

 ここで何度も取り上げていますが、教員のなり手が不足していることが課題です。しかし一方でこうした教員の仕事に対してマイナスの情報をメディアが流し過ぎていることも課題と考えます。しかも、これらが事実を的確に報道しているかについては若干の疑義があり、少し行き過ぎた政府批判、学校批判であると感じます。

この記事は、『何が教師を壊すのか 追いつめられる先生たちのリアル』という書籍の抜粋らしいです。

 そこで、ここではこの記事が本当に「先生たちのリアル」を伝えているのかコメントを入れてみます。

 

 まず、一点目は以下の文です。

「評価をめぐる負担も重くなったと感じている。学習指導要領の改訂に先立ち、通知表には、主体的に学習にとりくんでいるかを問う項目が加わった。プレゼンテーションや、資料の読み解き、ノートのとり方など、一人ひとりの学習や思考のプロセスを、より丁寧に見ることが求められるようになった。数値化は難しく、それだけ手間がかかる。」

これは、大昔のように「知識技能」だけをテストで問うのではなく、現行の学習指導要領が「思考判断表現力等」「主体的に学習に取り組む態度」という評価の観点を加えた

ことを述べています。いわゆる「学力の三要素」です。確かに評価の手間はかかるでしょう。しかし、これは「暗記でテストで評価することがよくない!」という批判から考えられたものです(当のメディアがこうした批判を繰り返してきたはず)。教員の負担を軽減するのは別のところに焦点を当てるべきではないかと考えます。

たとえば、記事にある「虐待」「給食費未納」の問題などは教員ではなく、外部に業務を回していくべきでしょう(というより虐待は明らかに児相案件)。確かに記事にあるように、「仕事には疑問もあった。授業に関係のない業務が多すぎることだ。」という現実は改善していかなければなりません。

 

 二点目は、以下の文です。

「女性は教員になりたての20代の頃、先輩から「月給は年齢×1万円」と聞いた。30歳なら30万円、40歳になれば40万円……。「夢あるわー!」と思ったが、行財政改革のあおりもあり、現実は違った。」

ここの、「現実は違った」の部分。どう違ったのかがかれていません。教員の月給は大企業に比べれば高いとはいえないですが、平均を上回っていることは確かであり、年齢とともに昇級していくという意味では「夢がある」ともいえなくないと思います。

 

 この記事を読んだり、他の「教師の働き方改革」問題の議論を読んだりしますと、教師の長時間労働と残業代が議論の中心になっていることがわかります。しかし、ここで一つ大きな疑問がわいてきます。

それは、「教師の専門性とは何か」「教師は専門職なのか」という問題です。

私たち大学の教員はいわゆる裁量労働制であり、タイムカードなどで出勤時間を縛られることはありません。教育・研究していく上で勤務時間が短い日もありますが、論文執筆中などはで長時間働くことは珍しくありません。この時に大学の教員で「なぜ我々に残業代がつかないのか!!」と怒り出す人はほぼいないと思います。

 ここでは「専門職」とは何かという議論が必要になりますが、省きます(佐藤学『教師というアポリア』参照)。佐藤氏は教師は専門職ではないとい言い切っていました。

 おそらく大学の教員は医師、弁護士などと並んで「専門職」と言えると思いますが、小中高の教員に残業代をつけるとなるとますます「専門職」から遠のいていく気がします。「専門職」は簡単に言えば管理されない自主性の高い職業だからです。

 秋田喜代美氏は『新しい時代の教職入門』(有斐閣、2006)の中で教師の仕事の特徴として「無境界性」「複線性」「不確実性」があると述べています(pp.11-15)。とりわけ、ここでは「無境界性」が重要です。秋田氏が教師の仕事について、「どこまでやってもそれで終わりということはなく、生徒のためによりよくやろうとすると、ここまでやればよいという境界は明らかではありません」と述べているように、仕事とプライベートとの境界線が曖昧であるという特徴があるのです。

 たとえば、「読書」も趣味であるのか、教育(仕事)のために読んでいるのか線引きは曖昧です。趣味で読んでいると思っていた読書の内容を授業の雑談で話すことなどは頻繁に起こります。しかしながら、これが行き過ぎると仕事の境界がなく、「生徒のためにもっと頑張れ!」という圧が強すぎて息苦しくなることもあるのでしょう。

 前述のとおり、大学の教員は好きな研究ができるからこの仕事を選んでいる人が多いので残業代に文句を言う人はほとんどいません(でも給料の総額はもちろん上げて欲しい!!)。

 一方で、小中高の先生方に残業代をつけるということは、先生方の仕事に「ここまで」という境界をつけることです。残業代をつけるとは「君の仕事はここまで」と誰かに管理されることです。給特法の率を上げることが批判されていますが、先生方は本当にタイムカードと残業代で管理されたいと思っているのでしょうか。

  

 明治から昭和の戦後まで、教師観には「聖職者的教師観」「労働者的教師観」の二項対立がありました。今の議論は「労働者的教師観」に基づいているようです。「聖職者的教師観」にも課題はありましたが、少なくとも日本の教師は欧米に比べて周囲から尊敬されてきた職業だったのはこうした職業観があったからだと思います。

 趣味の読書や旅行など教師自身の多様な経験が児童生徒によい影響をもたらすことはこれまでも多く語られてきたことです。こうした文化が消えて行ってしまいそうで少し心配です。