七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

教育学は二流の学問なのか

 今回は竹内洋『革新幻想の戦後史』(2011年、中央公論新社)を読みました。

 これを読んだ理由は、久しぶりに「教育学は二流の学問」というフレーズを耳にすることが多くなっているからです。苫野一徳『学問としての教育学』(日本評論社、2022)で紹介されているみたいです。

 久しぶりと書いたのは自分が教育学を専門とする大学院生であった頃にも耳にしたフレーズだったからです。医学部、理学部、法学部、文学部のような伝統的ないわゆる「一文字学部」の学問と比べて教育学は格が落ちるとはよく言われていました。

 これを主張していた代表的な論者として元京大教授の竹内洋氏が挙げられます。それで、もう一度教育学の立ち位置を考えてみたくなったので竹内洋『革新幻想の戦後史』(2011年、中央公論新社)を読みました。

 この教育学に関する議論はⅢ章「進歩的教育学者たち」に詳しく述べられています。

  • 二流の学問と言われる教育学は、時流にうごかされやすい。実践的な分野だけに超然的なアカデミズムの立ち位置を保ちにくい。(p.130)
  • 二流の学問である教育学には上位の学問によるお墨付き(文化的正当性)が必要である。(p.193)

 哲学、歴史学社会学などを上位の学問とし、二流の教育哲学、教育史学、教育社会学などを下位の学問とするということですね。反論したい気持ちもありますが、なかなか難しいところです。さらに教科教育学にいたってはさらに格下に置かれがちです…。

  本書を読み進めていきますと、大学院生の初期に抱いていた教育学に対する違和感が消えてスッキリしていきます。もう20年以上前のことではありますが、大学院でアカデミックな世界に触れたとき、教育学って思想的にずいぶんと偏りがあるのだなと強く感じたものです。

 竹内氏は、「左傾文化が支配的な大学や学界や論壇を基準にすれば、進歩的教育学者は体制派である」「大学キャンパスでは左傾教授は体制派だったのである」(p.163)と述べている。これは教育学の世界ではそれほど変わっていないかもしれません。教育学における議論では、中立的な視点は見受けられず、多様性が認められることは稀であり、集団が一つの方向性に縛られているかのような感覚になります。ですから、清水義弘、潮木守一両氏のエピソードが印象に残りました。

 竹内氏は自身が学んだ京大の哲学的教育学を自虐的に「超俗的教育学」と呼称する一方、役に立つ教育実践、授業研究を主とする現代の教育学を「各種専門学校的教育学」と位置付けています。いずれか一方に偏ることが望ましくないということなのでしょう。 この対比は戦前の師範学校の時代から続いているアカデミシャンかエデュケーショニストか、という二項対立にみられる教育学の永遠の課題であるといえます。

 ここでの竹内氏による「超俗的教育学」とは正反対の「進歩的教育学」批判も痛快でした。例を挙げると、以下のようになります。

  • 「かまえ」、「なかま」、「まなび」など和語を多用する。
  • 「上から」はねべて悪、「下から」はなべて善という二項対立。
  • 「すべき」が頻出し、現実がどうなっているかを分析していない。

 竹内氏は、「わたしが当時抱いた教育学への疑問は、知的廉直さと遠く、「価値判断」と「事実判断」がずるずるべったりになることの無自覚さ(中略)への嫌悪だったように思う」(p.170)と述べています。

 確かに、教育学は「価値判断」が先行してしまい、私たちも時として「事実判断」を歪めて都合良く捉えてしまうところがあるかもしれません。研究者として「自分の価値に抵触しても事実ならこれを認めるという知的誠実さ」(p.169)を失ってしまうと本当に教育学は二流、三流の学問に成り下がってしまうのでしょう。たとえ、二流の学問と揶揄されても教育学が社会に貢献できることはあるはずです。今回は、教育学を研究する立場から我が身を省みる機会となりました。