七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

次世代に伝えるべき文化的価値とはなんだろう?

 最近、改めて「教育学」という学問について、考えることが多くなりました。

 それは、現代の学校教育におけるあらゆる改革の方向性に「教育学」が貢献できていないのではないかと自責の念にかられることが理由です。

 私自身に「教育学」とは何か、そもそもその対象である「教育」とは何かを改めて考える機会が多くなってきているのです。

 今回は宇佐美寛『教育哲学』(東信堂、2011)を再読。

 若い大学院(修士課程)の頃、教育哲学を専門とする院生が自身の研究分野を紹介するときに、「私は○○をやっています(○○にはデューイ、モンテッソーリなどの思想家が入る)」とやや勝ち誇ったように話すことに違和感がありました。

 現場経験の課題意識をもって大学院に入学した当時の私には、△△の課題(例えば不登校問題)を解決するため○○の理論を研究するというのなら理解できたのですが、○○の思想の研究が目的であるような話し方はとても理解できないものでした。

 その時に、宇佐美氏の論文に出会いました。当時、これほど的確に私の違和感を解消してくれる論文に感激したものです。そこで、再び手に取りました。

 結論から見ていくと、「教育哲学」と「教育思想」を峻別すべき、という主張です(p.263)。教育哲学は、「教育思想を研究する学問である。」とし、教育思想は、「〈教育〉という営みに関わる様ざまな人びとがそれぞれが頭の中に持つ観念である。」と述べています。つまり、「〈教育思想〉という思考が有る。この思考を研究する思考が〈教育哲学〉である。」(p.269)のです。

 下記のように、教育哲学を研究する者の姿勢を痛烈に批判します。

・「西洋人のだれかを選び、その人物の本・論文だけを読むという、多くの研究者の勉強しかたは、まことに非学問的である。」(p.186)

・「思想家を選び、それに従うのではなく、自力で問題を作るべきなのである。」(p.186)

・「研究とは何か」「今までだれも言わなかった新しいことを自ら主張するのが研究だ。」(p.249)

・「論文の「はじめに」のところには、(中略)この論文は、一言でいえば、どんな新しいことを主張するのかを、ずばり書くのです。」

・「問題意識とは何かというと、私はいきどおりだと思います。」「問題意識の無いところに学問は成り立たないと思います。」(pp.261-262)

 

 確かに教育哲学を専門とする研究者に対する苦言としてはその通りであると思います(ちなみに私の専門は教育哲学ではありません)。

 でも何か引っかかります。「はじめに」以下のような文があります。

「およそ学問の業績というものは、新しいものでなければならない。今までの旧いものとは異なるものでなければならない。それでなければ意義がない。先人の業績のくり返しは、まねか、せいぜいのところまとめにすぎない。創造的であることこそが学問の本質である」(p.ⅵ)

 これはあくまでも〈教育哲学〉という「研究」に対する宇佐美氏の批判です。これを教育の実践に当てはまることは難しいと考えます。教育の実践においては〈教育思想〉も重要です。例えば、偉大な思想家(たとえば孔子ソクラテス)などの思想などを先人の業績と考えた場合、これをまねしたり、まとめたりしてこれを教育して行くことは有意義であります。

 なぜなら、教育の定義を単純化すると「教育とは、複数の人間で成り立つ共同体における文化的価値の継承」であるからです。孔子の思想が文化的価値があると考える共同体においては、これを伝えることこそが重要なのです。

 価値の多様化が叫ばれている今、学校教育の目的が揺らいでいます。すなわち学校教育の存在意義が問われているのです。私たちは、次世代に伝えるべき「共同体における文化的価値」とは何かと問うていく必要があるのです。