七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

デジタル教育を問う

久々に投稿します。

 物江潤『デジタル教育という幻想―GIGAスクール構想の過ち』(平凡社、2023)を読了。私自身、GIGAスクール構想に対して、そのメリットばかりが強調され、デメリットが議論されないことを危惧しています。これまでも、新井 紀子『ほんとうにいいの? デジタル教科書』 (岩波書店、2012)、堤未果『デジタルファシズム』(NHK出版、2021)、バトラー 後藤 裕子『デジタルで変わる子どもたち ―学習・言語能力の現在と未来』 (ちくま新書、2021)など、教育現場でICTを推進することを危惧する意見も多数みられます。本書も、こうした文脈に属するものと思い手に取りました。

    本書で秀逸であったのは、デジタル教科書の本格導入に至るまでの議論について理解するうえでのキーワード「最初から結論が決まっていた」(p.107)と指摘している点です。私も少し調べたことがありますが、学習者用デジタル教科書(すなわち児童生徒が使用する教科書を紙からデジタル化する)を使用することに対する慎重派の意見はほとんど取り上げられていません。デジタル教科書の使用ありきで議論が進んでいるのです。

 一方、全体を通して気になった点は、本書の関心がICTを活用した授業の学習効果の有無に向けられていないことです。どちらかというと、1人1台の端末を与えたことによる生徒指導上の課題を重要視しているように読み取れます。

 また、しかし、GIGAスクール構想の過ちを指摘する際の論点として学級崩壊と結び付けて論じられた「共同体による全人的教育という奇跡」(p.125~)については少し疑問に感じます。著者は、ICTの導入と学級崩壊を関連させて論じています。児童生徒が教員の目をかいくぐり、学校内でタブレットをゲームなど学習以外に使用することを危惧しています。

 とりわけ、従来の学校教育を「全人的教育」として捉えた以下の解釈には少し違和感を覚えます。著者は以下のように述べます。

  • 「この、生徒をがんじがらめにする指導・規則の徹底は、まさに全人的教育そのものです」(p.129)
  • 「ここに、全人的教育という目的と、共同体の維持という絶対条件が、分かちがたく結びついていた学校の姿があります」(p.129)
  • 「全人的教育の達成という点だけを考えれば、共同体的機能集団としての学校は最適だったどころか、これ以外の形は考えにくいとさえ言えます」(p.130)

 「全人的教育」とはこうした閉じられた教育の対極にあるような、幅広い教育的価値を調和させることを目的とするような教育観ではないかと考えます。「全人教育論」を掲げた小原圀芳とは異なる考え方ということでしょうか。

  とはいえ、学習面における次の提言には概ね賛同できます。学習のツールとしてのICT活用の課題について著者は、「総合学習の時間中、生徒たちにタブレット端末を委ねるのではなく、その反対に使用を禁じて書籍から知識を得るという方針だってよいは ずです」(p.175)と述べています。この意見には概ね賛同できます。

 結局のところ、デジタル教科書の使用が児童生徒の「読む」という行為においてどのように影響を与えるのか、ノートに「書く」行為にかわってタブレット端末に入力していく行為がどのように影響を与えるのか、もっと真剣に議論することが必要であることは疑いのないところです。