七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

経済産業省が進める教育現場のICTの活用

 前回に続きまして、松岡亮二編著『教育学の新常識―格差・学力・政策・未来―』(中央公論新社、2021)の続きです。今回は、その中の第11章 児美川孝一郎「EdTech―GIGAスクールに子どもたちの未来は託せるか」を読みました。

 児美川氏は総じてGIGAスクール構想に対して否定的より慎重であるべきであると考えているようです。この点については概ね同意できます。特に以下の文が重要です。

  • 「教育のICT化ありき」ではなく、こういう教育を実現するためにはICTが必須とな  るという教育の哲学が求められるはずだ。(p.183)

 「ICT教育」という語句を使用する方がいますが、本来は「教育におけるICTの活用」であるわけですので、何かの教育目的のために方法としてICTを活用することが目指すべきかたちであろうと思います。しかし、それが今は揺らいでおり何のために使うのか目的が自覚されないまま「使うため」のICTの導入が進められています。

 また、本書では政府の推進する怪しげなsociety5.0という概念が教育の「公共性の解体」であり、「ICT化=学校制度の枠組みの解体」であり、教育の「市場化」をもたらすであろうと指摘しています。文科省は「主体的・対話的で深い学び」という今回の指導要領のスローガンから「個別最適な学び、協働的な学び」へとシフトさせようとしています。「主体的・対話的で深い学び」は最終的に「深い学び」へとたどり着くことがイメージされており、なかなかよいスローガンであったと思います。一方で「個別最適な学び、協働的な学び」は方法論で終わってしまっている印象です。

 本書における最も重要な指摘は、こうした「教育の公共性の解体」「学校制度の枠組みの解体」「教育の市場化」が文部科学省ではなく、総務省経済産業省の意向によっても進められているという点です。児美川氏は経産省の「EdTech」について、「教育産業やIT産業を中心とする民間事業者が、これまでよりもはるかに容易に学校教育に参入していく道筋をつけることにあったと見ていいだろう」(p.194)と指摘しています。

 この経産省主導の「EdTech」が学校現場で普及した場合、私が最も心配なことは教師の存在意義が希薄になっていくのではないかということです。個別最適な学びを支えるデジタル教材が導入されることにより、教師はこうした端末を扱う児童生徒のテクニカルサポートをする仕事になっていくのかもしれません。児美川氏は「特別活動が存在しないようなスリム化された学校」(p.199)になることも危惧しています。

 教育の世界に利益を追求する私企業が過度に参入してくることはリスクを伴います。それは児童生徒の利益よりも企業の利益が優先されることがあるからです。商品を売り込むために児童生徒のためにならない教材が導入されることもあり得ます(今でもそのリスクはありますが)。

 このようなsosiety5.0型の教育が本当に実現した場合、教師になろうとする人材はどのように変わっていくのでしょうか。