七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

小学校教員のなり手がいない件

東京都教育委員会の公式発表によると、令和5年度実施の東京都の教員採用試験について小学校教員の倍率は1.1倍だったとのこと。

かつて、教員採用試験で適正な選抜をするには3.0倍以上は必要ではないかと言われていました。しかし、この1.1倍という数字は、欠席者、併願者などを考えるとほぼ全入といってよい状況です。

これは、教員のなり手がいないことの問題も深刻ですが、従来の教員採用試験では合格できなった学生が教員になっているかもしれないという問題の方が深刻のように思います。

2000年前後には教員採用試験は大変な高倍率でした。この時期に教採を突破した40代後半以上の世代の先生方にとっては、現在の教員採用試験の全入時代を受け入れがたいのではないかと推察します。メディアでは、教員のなり手が不足している原因を「ブラック」と一言で片付けようとしています。その結果、各教育委員会は、残業の軽減するため業務過多などを改善しようと努力を迫られています。

 

しかし、本当にそれで教員のなり手が増えるのでしょうか。私にはそうは思えません。

現代の教員のなり手不足の原因の一つには高学歴層が教員になろうとしていないということが考えられます。これは、大手企業に対する教員の待遇の低さだけが原因ではありません。現代の教師の仕事は、こうした勉強を得意としてきた人材が活躍できる場となっていないのが課題であると思われます。

文部科学省が示す現行の「学習指導要領」では、「主体的・対話的で深い学び」が提唱され、児童生徒が自ら学びを進めていくことを推奨しています。また、中教審答申「令和の日本型学校教育の構築を目指して」では、「個別最適な学びと、協働的な学びの実現」が目指されています。こうした方針に対しては部分的には賛同できますが、一方で教員のあり方を大きく変えてしまう考え方であると危惧しています。

この答申において、教師は「子供たちを支える伴走者である教師」と位置付けられています。つまり、従来の教師のイメージである自分の学識や経験を伝える教師、すなわち児童生徒を統率する指導者ではなく、支援者としての教師像が描かれているのです。

これは、文化的価値の伝達を主たる業務としてきた教師像の大きな転換です。

こうした方針に伴い、現代の学校教育では授業方法にも型が示されるようになり、授業の善し悪しは、学力が身についたか否かよりもいかに児童生徒の発言を引き出したか、いかに児童生徒がアクティブであったかに注目が集中するようになりました。学校現場で強調される「授業は児童が主役」という言葉が浸透すればするほど、教師の役割が小さくなり、教師の魅力が軽減されていくというパラドックスに陥っています。

 

その結果、大学まで学習面で努力してきた高学歴層にとって、教師という仕事が自分の能力を発揮できる場として機能しなくなっているという状況が生じていると考えられるのです。こうした状況であるならば、高学歴層は塾で働いたり、教育系ユーチューバーになろうと考えても不思議ではないという気もするのです。

つまり、「児童が主役」の学校で脇役に回った教師の魅力が軽減されていることが教員のなり手不足の原因の一つであるのです。

 

この続きについては、また書きたいと思います。