七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

学校崩壊から20年、教育を取り戻す!

もう20年以上前に読んだ本です。

河上亮一『学校崩壊』(草思社、1999)が久しぶりに読みたくなりました。

それは、当時の自分にとって衝撃的なセンテンス「教育が福祉になってしまった」(p163)を最近思い出すことが多かったからです。

教育には社会福祉学的、心理学的な支援の必要性があることは否定しません。

しかし、これが行き過ぎると「教育とは何か」という本質的な問題がわからなくなり、教育現場における実践が迷走していくのです。

本書を読み終えると、9990年代後半から2000年前後が日本の学校教育における一つの転換点であったことが感じられます。

現行の教育基本法第1条には、「第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。それは、教育が個人(学校でいえば児童生徒一人ひとり)の「人格の完成」を目指すだけでなく、それぞれが「社会の形成者」となることを目指しているのです。しかしながら、1980年代の日本はバブル経済で栄華の絶頂を極めたことにより、現代にいたるまで学校教育において優秀な人材を育成することを放棄してきたと考えられるのです。

この『学校崩壊』は、当時大きな社会問題となっていた少年による凶悪犯罪への関心と相俟って多くの読者を得たと思われます。河上氏は、個性の尊重など子どもの自由を認める風潮が行き過ぎた結果、耐性の弱い子どもたちが増えていると指摘しています。

私も当時は、教員として不登校問題と向き合っていた関係で、少なからずこうした主張に同意していました。しかし一方で、現代において子どもたちの個性を認めようとする大人たちの対応は、多くの子どもたちの心を救っているとも考えています。それは、中学校において荒れ、非行が大幅に減少していることに表れているのです。このように、教育現場に福祉的な側面が加わり、学校現場でも不登校支援や発達障害のある子どもたちへの支援など丁寧な対応が実現しつつあります。

冒頭で述べたように、それでも教育は福祉は別の概念です。教育は、子どもたちを育てるためにある程度の価値観の強制、押しつけを伴うこともあります。

先日、GDPがドイツに抜かれたというニュースもありました。日本がこのまま落ちてしまわないように教育に何ができるのかを探っていかなければなりません。