七つの子の教育学

大学教員による七人の子育てと教育問題についての雑感

「教えることが好き」だと教師になってはいけない?!

関東地方の多くで教員採用試験の一次試験(おもに筆記試験)が終わり、二次試験(面接等)に向けて大学生の準備が始まります。

面接に向けた指導の際、同僚の教員が学生の前で「志望動機に「教えることが好き」と書くことはよくないです」と強調していました。面接官に「児童生徒に勉強を教え込む人=暗記注入主義」のように思われるからだと。「児童生徒の学びを支えることが好き」と言うようにと指導していました。

うーん。時代の流れは理解しているつもりです。それでも違和感が拭えないです。

教師を目指す人のきっかけは概ね以下の3点ではないでしょうか(例外も多数あります)。

  1. 「素敵な恩師に出会ったから」
  2. 「子ども達と触れ合うことが好き」
  3. 「教える内容が好きなのでそれを教えたい」

どれも重要ですが、1はきっかけであり、2は他の職業(たとえば学童保育)でも達成可能です。学校の教員を目指す理由として最も重要なことは、3の自分の好きな勉強を教えたいということではないでしょうか。

「教えたい」がなぜ「教え込む」ことに直結してしまうのでしょう。児童生徒が楽しく、わかりやすく、自発的に学べるように「教えたい」ということも十分考えられるのに。

本当に現場では広義の「教える」(狭義の「暗記注入主義」だけではない)という行為そのものが否定されつつあるのでしょうか。

この件については以前の記事でも紹介しました。

 

tiangou1030.hatenablog.com

 

「学びを支えたい」は文部科学省の提唱する「学びの伴走者」と同じイメージです。

ラソンを例に挙げれば、伴走者とコーチはまったく異なる関係です。

「学びの伴走者」になりたいから教員になるという考え方もあるのだとは思います。しかし、そこで集まってくる教員の集団は、これまで教員になりたい(つまりは、教えることが好き)と考えていた層とは別の集団になりそうな気がします。

現代の教員に対する考え方は「サッカーが好きだからJリーガーになる」のではなく、「観客に喜びを与えたいからJリーガーになる」という考え方のような違和感があります。

自分が古い人間になっていることは否定しません。しかし、現状として国立の教員養成大学でも教員離れが進んでいると聞きます。

「教えることが好き」という教員を排除するような教員採用の在り方は、これまで努力して勉強してきた人の多くを教師の道から遠ざけてしまうような気がしてならないのです。